シカバネ
「なんで捻挫したなんて嘘つくんだよ」 「外から帰ってきて「噛まれた」なんて言ったら、 兄貴はシカバネに噛まれたって思うんじゃないの? 余計な心配はかけれないよ」 「この子の話を聞いてたらそうは思わねぇよ」 希一はライトを向けたが。少女の頭部を照…
「荘輔!」 「クソォッ!」 荘輔は短い怒号を上げると噛みつかれたままの腕で少女のシカバネを振り払う。 突き飛ばされた勢いで、少女は家の壁へと激しく背中を打ちつけた。 身を起こした少女は恨めしそうに顔を持ち上げる。 口から痛々しく血を滴らせていた…
険吞な面持ちでしきりにあたりを警戒しながら、 荘輔は辛抱強そうに一歩ずつ人工的に敷き詰められた芝生を踏みしめていく。 勝手口らしきシャッター付きのサッシ戸に近づいて、 ガラス越しに内部へ目を凝らしだす。 連中がいるのか? 希一は心配に思いながら…
次の二件目、続く三件目の中継ポイントを過ぎるにつれ、 希一の壁渡りも次第に見れたモノになってきた。 ――その間に一体のシカバネにも出くわさなかったのが功を奏したらしい。 荘輔は目的地である町中央の一軒家に着くまで、 水や食料は探索行動に必要な最…
「は? な、何でだよ!」 希一は思わず声を大にした。 理由が浮かばなかった。 荘輔は死体を切り刻むような行為をしたのだろうが、 それでも十歳の女の子を殺すなんて性格からいってあり得ない。 ひょっとして、荘輔の言うところの〝勉強〟をしたことが災い…
「なにも一撃で殺せなくても動きを封じるような痛手を負わせればいいんだよ。 連中から攻撃力を取り除くって手もある」 「攻撃力?」 ゲームかよ? 希一はふざけてるのかと思ったが、 荘輔の表情に遊び心は微塵もない。 「噛まれないように顎を砕くとか、 引…
わかったよ、 と荘輔は雑具入れの引出しをさぐってボールペンを取り出し、 散らかっていたゴミからレシートに見付けて卓袱台に置いた。 「まず――」 荘輔が座ったので希一もそれに倣う。「連中には大脳がない」 裏返されたレシートにペンが走り、つたないイラ…
「人ん家だろ?」 「生命危機を問われてるこの状況で何言ってんのさ」 明かり取りか換気用の小さな窓を、 猫みたいに体をくねらせてくぐる弟に希一も続いたが 肩や腰や膝小僧などあちこちを窓枠にぶつけた。 結局、逆さまになって頭を何かにぶつけてから床に…
「透かしのブロックに足を引っかけるんだよ!」 言われて希一は塀の横面に目を移した。 ブロック塀の上と下の段の数カ所に 漢字の「四」に似た形の透かしブロックがあるのをみつけ、 慌てて爪先を差し込む。 ブロックを足がかりに体を持ち上げた希一は、 荘…
荘輔が顔を寄せて来て小声に言う。「遅れたらだめだよ。 僕が道に降りたと同時に連中は起動する。 上るのに手間取ってたら、その間にも連中は迫(せま)ってくるんだ」 「――ああ、わかってる」 知らず言葉が尻すぼみになる。 希一はさきほど弟に言い捨てた台…
たっぷり十分は待った頃、 荘輔が行動を始めた。 「これで周辺のやつらはいなくなったはずだよ。 先に降りるから、合図したら兄貴も続いて」 縄ばしごに足をかけた荘輔は慣れた動作で本通りへと降りていく。 地面に足を降ろし、 周辺に目をめぐらせた荘輔は…
荘輔(そうすけ)曰く、 玄関から出発しない理由は、 希一に縄梯子の使い方を覚えてもらいたいということと、 マンション内に潜んでいるかもしれないシカバネを懸念してのことだった。 ベランダに出ると希一は思わずに鼻を押さえた。 いい加減慣れていたはず…
「ちょっと気になってることがあるんだ……」 出発の準備をしながら荘輔がこぼすように言っていた。 そのことが何故か引っ掛かる。 荘輔は〝気にしている〟と言っているのに、 言葉のイントネーションは乾燥してるみたいに味気なく、 希一は荘輔が放つ妙な凄み…
それから、すぐに決断を迫られることになった。 精神の共に回復した身体は、 これまで摂取できなかった食物を貪欲に欲しがり、 見る間見る間に部屋を満たしていた食料は減っていった。 加えて電気が止まり、 数日前から水道の圧力も頼りなくなってきている。…
いきなり大きな物が手に触れた。 取り出すと、 への字に湾曲(わんきょく)した大振りの鉈だった。 ナイロン織りの鞘から引き抜くと同時に鉄臭さが増す。 収められていた濃密な臭気を放つ鉈の刀身は、 綺麗に拭かれているが、 その色味は枝葉をはらうために…
荘輔の部屋に戻ると、 さっきは気が付かなかったがサッシ戸のクレセント錠が開いている。 希一はサッシ戸に手をかけた。 夜明かりに浮かび上がったベランダの手摺り、 その二カ所に見慣れない縄が縛り付けてあり、 縄の結び目が何かのタイミングでみしりと軋…
思えばついこの前にも聞いた気がした。 あの時は半分寝ていたので空耳だと決め付けた。 だが今回は違う。 はっきりと目が覚めている状態でこの耳で聞いたという自覚があった。 布団をはね除けた希一は耳を澄ませた。 外を誰かが走っている。 すぐそこの本通…
極力居間を使わないことにし、 生活空間の幅を自室のみに狭めて数日が経った。 いよいよ冬の到来を告げるように昼間の室内でも息が白くなりだした。 なので、暖房器具をフル稼働にしている。 これまで音が気になってスイッチを入れられなかったが、 自室のド…
「兄貴、兄貴」 荘輔に肩を揺すられて希一は目を覚ました。 見ればカーテン越しに陽の光が差し込んで部屋が明るくなっている。 「よく寝てたね」 荘輔が目許にクマの溜めた顔で呆れている。 「あ――、悪い」 ばつが悪い希一に、荘輔は妙にすっきりした声を返…
冷蔵庫をそっと閉じてから上げた目が 玄関のドアに吸い寄せられた。 ドアフォンに視線を移した希一は、 床の軋む部分を避けて歩を進めモニターを点ける。 ふっと目の前が明るくなり、 川口だった者の暗い顔が画面に映し出された。 口の周りに付いている血は…
希一達は豊富にある食料にほとんど口を付けなかった。 というよりは喉を通らなかった。 世界の終わりを見たあの日、 荘輔がドアフォンの音量をゼロにしてインターフォンを鳴らなくしたものの 相変わらずノックだけは続いた。 籠城を始めて三日三晩その音に悩…
拳一個分すかした窓を通って シカバネ共の息遣いと生臭い夜風が一緒に吹き込んでくる。 缶詰の鯖を半分食べたところで 希一の胃は残りを受け付けなくなった。 食べ残しにラップをして冷蔵庫にしまう。 窓に歩み寄った希一はカーテンの隙間から外をうかがった…
すべてを先生と思おう。 そうすることで僕は精神的安定を保っていた。 そうでもしなければ 毎日道の真ん中に新しい血溜まりが出来る 夜の町なんか歩けない。 歩くと言っても道を闊歩する訳じゃない。 住宅の隙間にある塀に上って、 区画を縫うように進んでい…
乱雑なノックと絶え間ないインターフォンが響く中、 希一は靴を脱いで居間に上がった。 ふと右側の光源に気が付く。 入ってすぐの壁に取りつけてあるドアフォンだ。 そのモニターが点いている。 外の連中が余りにもカメラに近づき過ぎているので、 明と暗を…
害意、殺意、もしかしたら食欲。 とにかく邪念に満ち満ちた醜貌と 唸り声に囲まれたほんの十数メートルは はてしなく感じられた。 生涯で初めて出会った 本物の意味をもった敵をかいくぐり マンションの入り口に飛び込むと、段を飛ばしで階段を駆け上がる。 …
鉄で出来た巨大な風船が破裂したような 〝バーン!!〟 という轟音と同時に機体が爆発した。 一拍遅れて希一は衝撃波に顔を叩かれる。 知らぬ間に顔をかばっていた腕の隙間から 飛行機事故現場を覗き見た。 最早大きな火の玉となったヘリは 戸建てのひたいに…
自宅が目に入った途端、 焦りが足にきた希一の歩幅は大きくなった。 それは荘輔もいっしょのようで、 周囲よりもマンションを眺めることに注意が傾いている。 残り三つの十字路を越えれば安全地帯に逃げ込める。 そう気が緩んだとき、希一の耳が物音を拾った…
連中二人の息づかいまで耳が拾い始めた瞬間――。 ドカッ! 砂袋を殴りつけたような衝撃音と共に、 少年の一人が棒が倒れるように床に突っ伏した。 よく見えるようになった背中はジャージが張り付いていて、 肩甲骨辺りが不自然に窪んでいる。 「何やってんの…
「あいつらは走らない。いくら早くても小走り程度だ。 普通に走れば追いつかれない」 返事をする間もなく走り出す荘輔(そうすけ)を 希一(きいち)は追いかけた。 自分のすぐ後ろでにわかに唸り声が大きくなる。 その苦悶にも似た喉笛の響きは、 「待て! …
「兄貴!」 希一は急に掴まれた肩をビクつかせた。 振り向いたさきには緊張した面持ちの荘輔がバットを携えて立っていた。 どのくらい棒立ちになっていたのか、もう吉田の声は聞こえていない。 「こんな場所で何やってんだよ!」 荘輔は抑えながら怒声で唾を…