ACT Ⅰ 兆し ―01―
仕事のシフトが終わり引き継ぎを済ませた守野希一(もりの きいち)は更衣室のロッカーを開けた。
豚肉、牛肉、鶏肉といった動物性の油を吸って気持ち悪く湿った作業用つなぎを脱いで放り込む。
私服に着替えていると後から来た作業員に下世話な話題を振られた。希一は返事をしつつもそれ以上話題が拡がらないよう適当にあしらい、携帯電話と財布だけが入ったワンショルダーバッグを引っ掛け、御座なりに「お疲れ様です」と告げてさっさと出口に向かった。
現場と違って照明さえもケチっている廊下は薄暗い。そこかしこに濃い影が胡座(あぐら)をかいている。定期的に清掃業者が入っているものの、月に一度ではぜんぜん間に合ってない。廊下には埃が我が物顔で居座り、人が歩くことで隅に追いやられるているのだった。
まったく食品加工会社が聞いて呆れる。
だが、そう思っているのは従業員だけだ。おろし先の役員が見学に来ても、工場長達は従業員の行動範囲まで見学のコースに入れない。それが故にスーパーやデパートでは綺麗にパッケージされた商品がいかにも清潔に陳列されているのだ。
いくら外面が良くても中身は果たして黒いもんだ。
希一は卑屈な笑いに口角を歪めながら工場の玄関門に差しかかる。
門の脇に建っている掘っ建て小屋みたいな警備室から「お疲れ様です」と警備員が気さくに声をかけてきた。が、搬入口を兼ねている玄関に入って来たトラックのエンジン音で彼の声はかき消された。
希一はこれ幸いと足早に門をくぐった。
帰り道を辿りつつ思う。
仕事を辞めたくて仕方がない。
毎日毎日同じことの繰り返しだ。
行って帰って食って寝て起きて行って帰って食って寝て起きて行って帰って食って寝て――。
これの繰り返し……。
勤め先にいる人が〝まとも〟ならまだ楽しいのだろうが。希一の働く場所は分からず屋と聞かん坊と御頭(おつむ)のお薬が必要な人がほとんどで、業務の引き継ぎすらままならない人格の持ち主の吹き溜まりだった。
廃人一歩手前の者たちが金だけを求めて働いているのだ。
派遣社員から契約社員になった希一は、現場担当から正社員にならないかと誘われたが即答で断っている。正社員になったがために給料が少なくなる明細上の内訳は知っていたし、何より頭の悪い作業員が引き起こす生産事故の責任を取らされるなんてまっぴらごめんだからだ。
なので帰り道は希一にとって最高に気分の良い道だった。
畑と人家の割合が半々の街並み。ふと目に入った畑では夏の終わりを告げる収穫間近の稲穂がふくふくと膨らんだ米に頭を垂れている。稲を渡る穂波の秋声が短い季節の到来を伝えてくる。爪先から長い影を伸ばさせる夕暮れの風は心地よく前髪を掻き分けては額に滲んでいた汗を拭き取ってくれた。
帰ると言っても自宅までは歩いて五分だ。国道に面した工場から一級河川の方に進み、堤防沿いで歪(いびつ)な碁盤の目を作っている住宅街のマンションで暮らしている。
車道から町内の本通りに入ると、看板や庇(ひさし)の骨組みなどの名残を残した元商店街が横たわっている。今ではチェーン店のスーパーマーケットが通りのど真ん中にどっしりと構えており、帰りがけにそこで夕食の惣菜とビールを買うのが希一の習慣だ。
コロッケが週一のセールで三つで百円だった。コールスローとコロッケをカゴに入れ、安い銘柄のビールを幾つか選び取ってレジに列ぶ。夕方の買い物ラッシュはひどいものだ。三台しかないのレジは一台あたりに五人は列んでいる。希一は順番待ちにげんなりしながら蛍光灯を見上げたり爪の具合を確かめたりして時間をつぶした。
5分も経ってようやく順番が回ってきた希一は心底ほっとした。
ふいなことで、商品をレジに通していた店員に目が合うなり微笑まれた。
「おかえり~」
顔見知りとまではいかないが、よく見るレジ打ちのおばさんだった。
「ああ……どうも」希一はおざなりに会釈を返した。
レジ打ちさんはそれから何か喋りだしたが、希一は適当に返事した。取り留めのない天気や気温の話になんか興味はない。
横のつながりが薄くて現代人には住みやすい環境が整った町だが、スーパーの店員はどこもそんなに変わらない。気さくな人が三人はいるもんだ。
希一は正面のウィンドウへ視線を投げた。道を挟んだ向かい側に自転車修理の店が見える。店とは言っても一軒家の土間に工具を置いただけの代物で、いつも歯を剥き出しにして笑っている店主のおやじが行政に事業届けを出してるかは怪しかった。
壁に取りつけた棚の強度を試すように重ね置いた部品や機械用オイルに囲まれながら、おやじは手製のスタンドで後輪を持ち上げたママチャリを弄(いじ)くっている。節の膨れた枝のような指でおやじはチェーンを押えつつペダルを回した。
ほどなくサビだらけのチェーンを取り外したおやじは、急に首をすくめた。腰を上げて立ち上がると大通りへ出て空を見上げだす。
気になって希一がおやじに見入っていると、レジのおばさんが合計代金を告げた。税込み値段まで計算しておいた代金がカウンターに置かれていることを人差し指で示し、レシートの受け取りを断って出入り口に足を向けた。
自動ドアが開くと同時に奇妙な音が聞こえてきた。
思わず空を見上げてしまう。紅く染まった空いっぱいに嫌に不安感をあおる不協和音が轟いている。市内各所に設けられている防災行政無線のスピーカーかららしい。
「何のサイレンだ?」
自転車修理のおやじが西日を眩しそうなしながら言うと、おやじの知り合いだろう同年代の男が腕を組んで近寄って行き、「なんだろうねえ?」と似たようなことを口にする。
ふっとサイレンが聞こえなくなり、やたら音割れした響きで機械音声が喋り始めた。町のあちこちに木霊して聞き取りにくかったが、言い出しの単語だけははっきりと聞こえた。
『大規模テロ』
希一の周りでスーパに来た人々が立ち止まり、口々に「何事か?」という意味合いの言葉を囀りだす。
今にも他人という垣根を越えて声を掛けられそうな雰囲気を察した希一はそそくさとその場を離れた。
頭上ではまたサイレンが鳴りだしたが、希一がマンションの玄関に着くと突然にぶっつりと切られた。
何だったんだろう?
希一は眉を顰(しか)めつつポストをチェックし、階段に足を掛けた。狭い空間に四角く設えられた螺旋状の内階段を昇って二階へと上がる。
二〇三号室の鍵を開け、希一はサムターンを捻ってドアを閉めた。
「荘輔(そうすけ)、いるか?」
ただいまと帰宅を告げる代わりにそう投げ掛けて振り返ると、3DKの台所兼居間に弟の荘輔の背中が見えた。
流し台の横の窓を半分開いて身を乗り出している。見ればトイレのドアが開けっ放しだ。
「おい、そんなことしてたら危ねぇぞ」
希一の声を聞いて窓から首を引っ込めた荘輔は難しい顔をしていた。
「兄貴、今のって何のサイレンだっけ? テロがどうのって言ってたみたいだけど」
クレセントレバーとロックで二重に窓を施錠する荘輔は、希一にとって一番気の合う存在だ。両親を亡くしてからはこのマンションに移り二人で家賃を割り勘して暮らしている。
「知らねえ、こういうのはお前の方が詳しいだろ」希一は靴を脱いでバッグを下ろした。「まあ、気味の悪い音だったな」
「聞いたことはあるんだ」荘輔は伸び放題にしている頭をバリバリと掻く。「ネットだったか、テレビだったか……。とにかくあの音には聞き覚えがある」
「へえ――。っで、その記憶にはどんな感情がともなってんだ?」
変な訊き方だが、そうした方が荘輔との会話がしやすい。
「凄く嫌な感じなんだ」荘輔は真面目な顔をする。
「なんだよ、空襲警報か?」
希一は冗談のつもりだったのだが、荘輔は表情を崩さずに「そんな感じ」と頷いた。
荘輔の答えを、希一は鼻で笑い飛ばした。
荘輔は引きこもりながらネットの暴露ブログやサイトに一日中アクセスしていて、その情報が正しいか調べるために情報共有サイトの掲示板やSNS、ツイッターに話題を持ちかけては裏を取ることを趣味にしている。その延長で様々な本を読みあさっては広く浅い知識を蓄えているのだ。それも、国防省は民間のセキュリティー会社に警備されているとか、世の中は陰謀によって成り立っているとか、どうでもいいことばかり。他にも現行の社会秩序は極少数の資産家達が構築しただのどうのと宣(のたま)っていた。
一貫して社会を穿って目で見て蔑(さげす)んでいる荘輔が、真剣な面持ちで先ほどのサイレンに空襲警報を重ねても、起こった事に対して虚実の別もつかないネタをこてこてと後付けしているようにしか思えなくて、どうにも説得力に欠けるのだった。
「まいったなあ、防空壕でも掘っとけば良かったか」
軽口しつつ希一が冷蔵庫に缶ビールをしまっていると、ドアチェーンを掛ける音が聞こえた。
あっと思って振り向く。荘輔が責めるように目を細めていた。
「悪い、忘れてた」
鼻で溜め息しながら荘輔はテレビを点けた。リモコンでザッピングし、ニュース番組を見付けてはしばらく眺めている。多分さっきのサイレンについて何かやってないか見ているんだろう。しかし、どのニュースもあのサイレンについて一言も触れておらず、緊急速報のテロップも流れていない。
「誤報だったんじゃねえの」
シャワーを浴びようと服を脱ぐ希一を横目に、荘輔は自室に戻っていった。パソコンの電源を入れに行ったんだろう。
「楽しそうだな」希一は戯けた声を出し、浴室の引き戸を開けた。
仕事場でかいた気持ちの悪い汗を熱いシャワーで流していく。希一は爽快感を味いながら、お湯がほとばしる音の隙間にあのサイレンと『大規模テロ』の言葉を耳で反芻していた。
今の日本でテロが起こるなんてことがあるのか? いや、世界情勢的には起こり得るかも知れない。でもそれはテレビの向こう側の話であって自分には全く関係ない。漠然とそう思っている。
希一は一触即発の渦中にいる自覚もないし、現在の平和が揺らぐなんて疑ったことはないこれまでなかった。
元から銃社会でもなく、終戦後は軍隊を持たずに非核三原則で核兵器も所有していない。ただ技術によって遣り繰りする金が他の国よりも少し多い、それだけが取り柄の島国だ。個人思想の敢行の他にテロを仕掛けるモチベーションが生まれるのだろうか?
産まれてからそろそろ三十年になるが、希一には有事の脅威など想像も付かなかった。
浴室を出て希一が身体を拭いていると、荘輔が居間に戻ってきた。
「分かったよ」
荘輔な自分を落ち着けるように唾を飲み込んでから続けた。
「あれは国民保護サイレンだ」
https://www.youtube.com/watch?v=Xuf4BbxhE_o
続く…… ↓