NIWAKAな綴り士

危険なモノ 奇妙なモノ そういったことに共感し思いついたことを綴ります

プロローグ-02-

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 臭い……。


 生暖かく、酸味を帯びた臭気に鼻を突かれて、

 少年は目を覚ました。

 

 なんだろう……。

 

 ささくれだった指に心臓を抓まれたような不安に駆られて辺りを見回す。
 引き戸の隙間から細く射し込んでいる明かりが目に入った。

 

 母親のいる居間はまだ電灯が点いている。

 

 床にはりついてた明かりの中に、

 まだらな影が蠢(うごめ)いているのが見えた。

 

 ずっと聞こえていたので気づかなかったが、

 部屋の外では妹が大声で泣いている。

 

 嫌な予感が頭をよぎり、少年は布団をはね除けた。

 引き戸に飛びついて手を掛け、倒れ込むようにして部屋の外に出た。

 

 居間では母親が寝ていた。
 テレビは点けっぱなしになっていて、

 カーペット敷きの床には空になった酒の缶が立ったり倒れたりしている。

 うつぶせに寝ている母親の指の先には、

 読んでいたらしい女性誌が広げられていた。

 

 その上に、タバコが転がっている。

 

 先端の火がページに印刷されている有名人らしい女性の顔に、

 さながら悪性腫瘍みたいな黒い焼け跡を拡げていた。

 

 間もなく女性誌の上に小さな火の手が上がった。

 赤子の手を思わせる炎は、ちりちりと雑誌の端まで這っていき、

 そばに積まれている他の雑誌や新聞、脱ぎ散らかされた服を掴んだ。

 

 少年は、その様子をじっと見ていた。

 なにが起こったのかは把握していた。

 

 寝タバコだ……火事が起きているんだ。

 

 それを理解しても、少年は母親を起こす気になれないでいた。

 目の前で起きていることが自分にとって危険だとは思えたが……。

 

 不思議と、悪いことだとは思えなかったのだ。

 

 どうなるんだろう?

 このまま起こさないでいたら、お母さんはどうなるんだろう? 

 もし、そうなったとしたら、僕はどうなるんだろう?

 

 考えている間にも小さな火の手は燃えさかり、

 大人の腕ほどに大きくなる。

 しだいに壁をなで始め、居間の全体を赤く照らしだした。

 いよいよ、顔に熱が当たってきて、少年ははっと我に返った。

 

 逃げなきゃ。焼かれる。死んでしまう!

 

 急に頭をもたげた死への恐怖に駆られ、少年は駆けだした。
 玄関のドアを急いで開けようとしてドアチェーンに邪魔される。

 背中に暴力的な熱を感じた少年は、

 焦れる気持ちを無理矢理抑え込んでチェーンを外した。
 靴を履くのも忘れ、重たい鉄製のドアを身体でこじ開ける。
 途端に真冬の冷えきった空気に顔をなでられた。

 

 逃げなきゃ――。

 

 ただそれだけを考えて脚を動かし続けた。
 団地の棟の中を走っている最中、大きく息を吸って吐くと、

 肺に溜まったいた気持ちの悪い空気が抜けていく気がした。 

 

 棟から飛び出した少年は自分の部屋を見上げた。
 窓の向こうでは火が手を振っている。

 

「そうだ――、消防車――!」

 

 息を切らして喘ぐようにそう呟き、

 少年は団地の敷地内に一つだけある公衆電話を目指した。

 舗装改修も満足にされていない荒れたアスファルトを素足で蹴る。

 すでに寒さに麻痺している足の裏は、痛みを感じなかった。

 

 辿り着いた電話ボックスのドアを乱暴に開け放って、

 ライム色の電話機から受話器をつかみ取る。

 

 少年は焦って言うことを聞かない指を使い、

 なんとか緊急通報のボタンを押した。

 

 状況と住所を伝え終わって電話を切った頃、

 住人が団地内の異常に気づき始めた。

 

 見る間に人集りができていき、どよめきが周囲を満たしていく。

 

 棟から飛び出してくる者、野次馬になって遠巻きに棟を眺める者、

 携帯電話で通報する者、スマートフォンのカメラで撮影する者で、

 その場はごった返した。

 

 遠くの方からサイレンが聞こえてきたその時――。
 あることが少年の頭をかすめた。

 

 妹を置いてきてしまった……。

 

 にわかに胸がざわついた瞬間、

 燃えている部屋の窓ガラスが熱膨張で砕け散った。

 窓から転び出たのは炎と煙。

 

 それと、赤ん坊の激しい泣き声が、

 しんと乾燥した夜空を突き破る。

 

 痛烈な恐怖と痛みに破裂したような泣き声、

 産声とは明らかに様子が違うその声は、

 今まさに両手足を引き千切られている姿を少年に想像させた。

 

「……どうしよう……どうしよう」

 妹まで死んじゃう……僕のせいで――。

 

 どうしようもない後悔と呵責に、

 十三歳の少年の身体は耐えられず足に震えがきた。

 だんだん近づいてくるサイレンが耳鳴りに掻き消され、

 突然足の感覚がなくなる。

 へたり込んだ拍子に少年の胃はひしゃげた。

 半透明の黄ばんだ胃液がアスファルトにはねる。

 ――思えば晩ご飯を食べていない。

 

 野次馬に来た男の一人に「汚ぇな!」と罵声を浴びせられた。

 中身を全部吐き出したのに、

 なおも身を捩る胃に少年が苦悶しているところへ、消防車が到着した。

 

 慌ただしく降車してくる消防隊員を目にした少年は、

 隊員の一人にすがりついた。

 

「妹がまだ中にいるんです!」

 

 ヘルメットと銀色の耐火服に身を包んだ隊員は

 膝を折って少年の両肩に手を置いた。

 

「分かった。必ず助けるから君はここにいなさい」

 

 懸命に言って聞かせてくるその隊員は、

 まだ近くにいた先ほどの野次馬男をつかまえ、

 少年の保護を言いつけると消火作業に戻っていった。

 

 男から面倒臭そうな視線を向けられながら、

 少年は炎と煙を止めどなく吐き続ける窓を見上げて……。

 

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 妹の泣き声を聞き続けた。

 

 続く

 ↓

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